兵庫マスターズ 駅伝日本一のチームを支える監督とは? 北垣 章さん(前半)

兵庫マスターズ陸上競技連盟 理事 駅伝監督

北垣 章さん

1963年8月生まれ55歳

神戸市在住 家族(母、妻、二男二女)

コベルコソフトサービス株式会社 勤務

 

競技歴

1979年~1981年報徳学園

全国高校総体 5000M 8位

全国高校駅伝 3年連続出場 チーム5位 準優勝 優勝(1区3位)

 

1982年~1985年専修大学

箱根駅伝 4年連続出場1年:5区 2~3年:2区 4年:1区

全日本大学駅伝 3年連続出場

 

1986年~1989年神戸製鋼所

全日本実業団駅伝 出場

北京国際マラソン 日本代表 (マラソン自己ベスト 2時間19分37秒)

※26歳で現役引退

 

現役引退後

2013年 神戸マラソン招待選手(50歳最高齢)

2011~2017年 神戸マラソンのサブスリーペースセッター

2017年より 兵庫マスターズ陸上競技連盟 駅伝監督

 

兵庫マスタ-ズ駅伝チーム戦歴

2017年3月全日本マスターズ駅伝 総合優勝 (男子6位 女子優勝 エルダー優勝)

9月全日本マスターズ駅伝 総合優勝 (男子3位 女子優勝 エルダー優勝)

2018年11月全日本マスターズ駅伝 総合優勝 (男子準優勝 女子優勝 エルダー準優勝)

 

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北垣さんとの出会いは、昨年(2018年)兵庫マスターズの年代別選手として、

参加の声をかけていただいたのが始まりです。

 

その頃から、「ご自身も速いのに、どうして選手でなく監督をされているのだろう?」

という疑問がありました。

その謎を解くためにも、また兵庫マスターズの強さはどこにあるのか?

ぜひ知りたいと思い、取材させて頂きました。(金子)

 

取材記事は前半(選手時代)と後半(現役引退後から現在まで)の二部構成となります。

 

名門報徳学園時代

高校駅伝に3年フル出場 創意工夫で練習量を確保する

(第32回全国高校駅伝優勝 本人右端 28番)

 

(金子)

報徳学園時代の練習メニューはどんなものでしたか?

 

(北垣)

朝5時に起きて食パン1枚だけ食べ、6時前には自宅を出て

5キロ離れた学校まで通学ランでした。

そのまま、朝の練習に合流していたので、仲間の中では一番走ったほうだと思います。

人よりも速く走るためには自分で工夫して練習量を確保すること、

で頭が一杯だったのを覚えています。

学校での練習で足りないところは自分で考えて補う、

という先生の指導方針が自分に合っていました。

 

授業を終えた午後3時過ぎから7時すぎまで本練習。

帰宅して、入浴と夕食を済ませて10時には床に入っていました。

ですから、勉強は授業に集中し、宿題は休み時間にするなど、

時間管理が身につき良かったと、今は思いますね。

 

専修大学時代

激しい競争に耐え 手にした箱根駅伝

(第60回箱根駅伝 花の2区)

 

(金子)

厳しい練習をこなされ、その成果が実った報徳学園時代。

3年連続出場の陰には、北垣さんの日々の工夫や努力があったのですね。

その後進学された専修大学では、どんな練習をされていましたか?

 

(北垣)

駅伝は重点強化部でした。川崎市多摩区にあるキャンパスから

遠く離れた伊勢原市の山中に、陸上競技場やグラウンド、寮があります。

雑音が一切入らない競技に集中できる素晴らしい環境でした(笑)。

授業はあまり出席ができなかったのですが、単位は頂けました。

楽しいキャンパス生活に憧れていたので少しがっかりでした。

寮生活や練習はとても厳しく、全国から選抜された選手同士の競争が激しく

タイガーマスクに出てくる虎の穴の雰囲気でしたね。

毎年挫折して辞める人がいるのは当たり前の風景。

何とか勝ち残って箱根駅伝を走るという思いで過ごし、4年間出場することができました。

 

マラソンへの転向を目指し 実業団での厳しい練習

24歳で北京国際マラソン日本代表に

(兵庫リレーカーニバル招待10000M 本人左端上26番 ダイエー中山竹通選手の左)

 

(金子)

楽しいキャンパスライフでなく、山中に隔離された大学生活だったんですね。

この4年間も凄まじい練習をこなされ、駅伝に連続出場とは

フィジカルだけでなく、メンタルの強さを感じます。

そして学生時代から実業団へ。マラソンへ転向されたのですね。

 

(北垣)

フルマラソンにおいて国際舞台で活躍することを目標に、神戸製鋼に入社しました。

私は、モスクワオリンピック1万メートル代表の喜多さんから

マンツーマンでマラソンの指導を受けました。

喜多さんは34歳でしたが、まだ2時間12分台では走られていましたので、

一緒に走りながら教えていただきました。

 

とにかく練習量が多かったですね。

マラソンの距離を大きく超えるロング走の翌日に1000Mのインターバルを

20本など学生の比ではありませんでした。

入社2年目に、北京国際マラソンに日本代表で国際レースにデビューしました。

タンザニアのイカンガー選手と一緒に走ることができましたが、

7分遅れの2時間19分37秒と実力の違いをまざまざと見せられました。

 

死ぬほど頑張った現役時代から 悔いのない引退へ

 

(北垣)

実業団は結果が求められる世界。

次のマラソンは、ソウルオリンピック最終選考会のびわ湖毎日マラソンで2時間26分。

翌年の別府大分毎日マラソ2時間24分。4週間後の長野マラソンが2時間23分。

前半オーバーペースで後半に崩れるという不甲斐ないレースを続けたことに対して

自分自身に見切りをつける形で引退しました。

 

(金子)

青春を陸上に賭けた 北垣さんの「激走選手時代」の話はここまで。

そして、次回後半は引退後のご活躍についてです。

まだまだドラマは続きます。

近日公開!